聖書の引用箇所は、日本聖書協会の『口語訳聖書』『新共同訳聖書』を用いています。
聖書:(c)日本聖書協会
    Japan Bible Society, Tokyo

新聞折り込み誌「そのえだプレイズ32号」より

どうして復活を信じられるのか


 春になると、自然界の美しさと共に、教会では復活祭(イースター)を迎えます。今年(2004年)は、4月11日が復活日でした(暦の関係で、毎年若干変わります。) 主イエスの復活により、信じた人々の群れ=教会ができ、新約聖書が記され、福音が全世界に伝えられていきました。
 しかしながら、この復活ほど、人々にとってつまづきになることはありません。そんなのは迷信だとか、まぼろしを見たにすぎないとか、弟子たちがそう信じただけだとか、いろいろなことが言われています。
 少し前に、某有名高校を卒業し、一流大学に進学した学生二人が、牧師と話がしたいとやってきました。彼らは、私たちは信じる気持ちはないと話を切りだした上で、復活のことに話が及ぶと、「それは共同体幻想だ」と言いました。常識的に考えれば、理性的にそんな風に考えて当然とも思うのです。でも、なぜ共同体幻想と断定できるのかまで説明できる人は少ないと思います。
 あるいは、弟子たちが死んだはずのキリストが甦ったという幻覚を見たのだという人もいます。一方で、今日、精神科の分野で幻覚の研究が進んでいますが、幻覚はあくまで個人的な現象で、集団で同じ幻覚を見るということは通常考えられないという結論です。
 ある人は、キリストが甦ったという伝説が生まれたという人がいます(奇跡もそのように考えるようです)。確かに、歴史上の人物で伝説が生まれる場合もあります。しかし、伝説についても詳しく研究している研究家によると、通常伝説が生まれるには最低2世代の年月がかかるということです。というのは、その人物と同世代の人が生きている間は、ウソだと分かってしまうので伝説は生まれないというのです。主イエスの場合は、2世代を経るまでもなく、死後、ほとんどすぐに復活が宣べ伝えられていたことは、歴史上否定できません。
 キリストの弟子たちは、何のメリットもないのに、「我々は復活の証人だ」と人々に宣べ伝え、その結果多くが殉教していきました。命がけの証言だったのです。作り話に、命までかける人がいるでしょうか。このような状況的な数多くの証拠を思うとき、やはり主イエスは甦られたのだと、だから人は聖書の言うとおり、死んでもそれで終わりではないと、教会では信じているのです。
『事実、キリストは…死人の中からよみがえったのである』(Tコリント15:19)     
参考資料『キリスト教は信じられるか』『ナザレのイエスは神の子か』(いのちのことば社)



新聞折り込み誌「そのえだプレイズ18号」より

存在そのものが尊い!

 不登校の生徒が年間13万人を越えたというショッキングな内容の番組が、NHKで放映されていました。どうしたらいいのか自分でもわからなくなる生徒たち、先生方の懸命な姿勢…。そういう時代なんだと、改めて思いました。この数字の背後には、苦しみの中で家庭に引きこもらざるを得ない若者が50万〜100万人いると言う実体もあるそうです。本人も親も、いつ抜けるとも分からないトンネルの中で、希望の光がなかなか見えない中で、どんなにか苦しんでいるでしょうか。
 そんな中、個々の生徒にともかく耳を傾け、その生徒に応じた声をかけようとがんばっている先生が、とても輝いて見えました。とにかく学校に行かなければいけない。世間体も気になる。そういう外側をつくろおうとするのではなく、なぜそうなったのか、その気持ちを理解し、その声に真剣に耳を傾けるこそ、今の大人に求められている姿勢ではないでしょうか。
 人間という存在は、皆と同じことができるからいいのではありません。何かできるから貴いのでもありません。そういう外側の自分を一生懸命飾ろうとし、誰もがそればかり追い求めています。本当にそうでしょうか。何にもできなくても、今のあなたの存在そのものが貴いと、聖書は私たちに語りかけています。そのことが本当に心から受け止められたら、きっと希望の光が見えてくると思うのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:)そう神は語っておられます



新聞折り込み誌「そのえだプレイズ16号」より

誌上メッセージ  どうして赦すことができないのか

 毎日新聞に「先生」というシリーズがありますが、先週の記事の中にある女性の小学校校長先生の自殺というショッキングな事件が取り上げられていました。概要は、ある保護者が息子の交通事故死にかかわる学校の対応について、様々な抗議を執拗に寄せ続けたことがひとつの引き金となって、自殺に追いやられたとのことでした。この事故は、自宅から外出した時の事故で、直接学校には責任はなかったそうですが、やり場のない思いを学校にぶつけたらしいのです。
 この記事を読んで、何とも言えないむなしい気持ちになりました。何か事件が起これば、家庭は学校の責任を追求し、学校は家庭の教育力不足を問題とし、とにかく自分以外の誰かの責任を追及してばかり、そんな世の中になってはいないかと思わされるのです。その結果、いじめに似たようなことが大人の社会でも起こり、どれだけ多くの人が苦しんでいるかと思わざるを得ません。確かに、誠意の感じられない無責任な人に責任を追求したくなるのはわかりますが、もし自分自身をもう一度見つめ直し、更には人を赦すことができたら、もっともっとよい社会になるに違いないと思うのです。
 聖書は、人間の様々な問題の根底には、一人一人の内に「罪」があるからだと記しています。罪と言っても警察にお世話になることばかりではなく、もっと内面的な心の問題のことを言っています。その罪の特質は、自己中心であり、高ぶりであり、責任転嫁であることを聖書は示しています。また、聖書はこの罪の問題をどうすれば解決できるのかを記しているのです。
 お互いが、神のような絶対者の前に自分の罪を謙虚に認め、苦しみの中にも、過ちのあるお互いとして赦そうという思いを与えられていかなければ、周囲の人ばかりでなく、その人自身も結局は苦しむことになってしまうのではないでしょうか。赦すということは口で言うほど簡単ではありません。神の愛が分かってきたときに、本当の意味で人を赦す心も与えられていくと思うのです。 
 「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」(マタイ福音書 7:3)