2008年2月29日

若い牧師夫妻
 朝祷会に、赤ちゃんを連れた若い夫婦が来られた。お話を伺うと、休暇中の牧師夫妻でいらっしゃった。新年度から、開拓伝道をされるか、既存の教会の協力牧師として働くか、主の導きを求めているということだった。短い時間だったが、若い牧師先生と祈りを共にし、心燃やされ、そのスピリットを分けていただいたような気がした。静岡市には、礼拝出席が100人を超える比較的大きな教会は中心部の2つだけだ。でも、たくさんの教会が建てられ、それぞれ伝道に当たっていることは大きな恵みだと思う。全市を見据え、祈りをもって協力していきたい。
2008年2月28日

備えと祈りと
 新年度の計画をしているが、特別集会のちらしを作るべく講師の先生と連絡を取ったり、ちらしの原稿を作成したり、また音楽会のゲストの依頼の手紙を書いたりと、事務的な仕事をいろいろする。早めにいかに準備ができるかで、集会にも大きく影響するように思う。そして、何よりも祈りの大切さを思う。このところ、改めて祈りの重要性を思わせられることがいろいろ起こる。祈りの大切さを、神様がさらに教えてくださろうとしているように思う。
2008年2月27日

大学の先生
 大学の時の教授の先生がわざわざ訪ねてきてくださり、最近出版された著書をくださった。地理学が専門の先生だが、70歳を過ぎた今も、海外も含め、国内もあちこち歩き回って研究を続けておられるようだ。その研究範囲は実に広範囲に渡り、よくぞここまでという感じがする。現役中にこういうことをなさるのならともかく、大学を退官されてもなおこうして続けておられること、またかつての学生をそのように大切にしてくださる姿に感動する。いつまでもお元気でいてほしい。
2008年2月26日

卒業記念礼拝
 英和で、卒業礼拝(卒業式)を前にした高校3年生対象の卒業記念礼拝のご用に出かける。自分が高校卒業の時はどんな思いだったか思い出しながら話すものの、卒業前の訓辞のような感じになってしまわなかったかと反省する。ともかく、毎朝礼拝を続けてきた生徒たちが、これからも神を仰ぎつつ歩む人生を歩んでほしい…。そんな祈りと願いを込めて、み言葉を取り次がせていただく。このような時間を伝統的に守ってきた英和はすばらしいと思う。
2008年2月25日

見えないところでの奉仕
 月に一度の近隣の高齢者の方のための集い、「恵朗クラブ」が行われた。教会員の女性有志の方が昼食を準備してくださるが、ある方の息子さんが材料を運んで来てくれた。奉仕の背後に、そのような方のご労があることを思い、心から感謝する。教会にご家族を送り出してくださる方々にも、見えない協力のあることを思う。会に出席してくださった方々は喜んでお帰りになったが、ご奉仕くださった方々と共に、そういう見えないところの協力者の方々にも、神の祝福があるようにと改めて祈る。
2008年2月24日

信徒研修
 礼拝後の午後、30名程の教会員が残ってくださり、信徒研修を行った。「身近な人々にどのように証しをするか」というテーマで、それぞれが日頃思っていることや体験などを小グループで分かち合っていただき、それを全体で報告するという形のやり方だ。日本でクリスチャンになる方は、身近にクリスチャンがいた人だそうだ。そういう意味で、私たちがこの社会に遣わされているということを、神様は用いてくださるように思う。そういう意味で、日々の歩みの中で主を仰ぎつつ、主を信頼しつつ歩むことだと思う。皆で信仰の交わりをする幸いを思う。
2008年2月23日

強い風が吹く
 今日の強風は春一番だそうだが、前線の通過でお昼過ぎから気温が一期に下がった感じがした。子どもたちが、午後、保育園で作ったたこを持ち出してきてあげていたが、風が強かったので、あがったあがったと喜んでいた。風と言えば、聖書の中でたびたび風に喩えられる聖霊を思い起こす。今日の風のような力強い聖霊のみわざが豊かになされることを、また新たな思いで祈ろうと感じさせられた。
2008年2月22日

種蒔く者に種を与える神
 依頼されていた説教のことが頭の中にあったためか、夜中に目が覚めてしまった。ふとんの中でしばし留まり、主に頼り祈りつついろいろ構想を考える。このような早朝のふとんの中、あるいは準備の場から少し離れて入浴中など、思わぬ導きを得られることがしばしばある。これも神の憐れみだろうか。「種蒔く者に種を与え」と、前回イザヤ書55章に記されていたが、自分を見れば手元には何もないが、種蒔く者に種を与えてくださる主の恵みを思うひとときだった。
2008年2月21日

自分に欠けていること
 年度替わりということで、今後教会を主がどのように導こうとしているか祈り求める中で、今日も教会の車の点検整備を待つ間も本を読んでいたが、いろいろ課題がありすぎてどこから手をつけていいかわからないような思いになってきた。リーダーは、「これから先のことを考えること、将来に向かって計画を立てること」とあり、具体的にいくつか記されていたが、自分自身はこのあたりが欠けていると正直痛感させられる。それは、自分が思いつくままに計画を立てても意味はないだろうし、主のみこころを問いつつ、教会の現状を踏まえてのことでなければならない。このような足りない牧師を信頼してくださっている教会員の皆さん、そして主の憐れみによって立てられていることを再認識し、考えていかねばならないと思う。
2008年2月20日

ゲスト捜しの困難
 刑務所では、クリスマスとイースターに大きな集会をしているが、聖書からのメッセージの他、いつも様々なゲストをお迎えしている。そのゲストを捜すのは、費用もなくボランティアで来ていただける方を探さねばならないこともあって、容易ではなく、今回もある音楽ゲストをお迎えしようと思ったが、スケジュールが合わず断念せざるを得なかった。受刑者の皆さんにも少しでも心和み喜んでいただける、また福音がその心に届くためにも、何とかいいゲストを見つけたいが…。祈りつつまた探していきたいと思う。
2008年2月19日

自転車で走って…
 午前は車で訪問に出かけたが、今日は風もそれほどなかったので、午後からは運動を兼ねて自転車で訪問に行く。2時間余りあちこち走ったが、汗ばむほどだった。最高気温を見ると10度に届かなかったようだが、日差しは何となく春めいたような感じがした。春が待ち遠しい人がたくさんいるように思う。体調が今ひとつの方も、春になって暖かくなったら、また元気が与えられるようにと祈るばかりだ。
2008年2月18日

見直しの必要
 午前から午後にかけてと、夜と、委員会と牧師会があった。両方とも、これまでのあり方を見直す必要な部分があって、いろいろ話し合えて良かったと思う。継続はそれほど難しくはないが、見直すということはどんなことでもエネルギーが必要だ。ただ、見直しがないとマンネリ化してしまう。静岡にいると、継続して行うことが当たり前になってしまうが、静岡に移って来られた先生方にいろいろ意見を伺いつつ、変えるべき点は変えていく必要を感じた。
2008年2月17日

ギデオンラリー
 ギデオン協会静岡支部の方が礼拝に出席してくださり、礼拝後にギデオン協会の働きのアピール(学生やホテルなどに聖書を無償でプレゼントする働き)と、ご自身がお勤めになっていたやまばと学園という重度心身障害者の施設で出会った少女の証しをしてくださった。やまばと学園は、今でこそ様々な施設もあり大きな施設となっているが、開設当初は長澤牧師を始め榛原教会の方々が、祈りと信仰を持ってスタートした施設だ。そこは、その精神が受け継がれ、入所されている方も、職員も顔つきが違うと言う。ギデオンのためにも、やまばとのためにも祈りたいと思った。
2008年2月16日

深夜の電話
 深夜(早朝?)に電話があり、あわてて出る。もしかして、急病人か召された方でもいらっしゃったかと思ったが、そうではなくホッとした反面、生活の問題であったので、それを伺いつつ、こちらも言うべきと思ったことはお話しさせていただく。それから目がさえて眠れなくなってしまい、教会に行って仕事をする。始めは、もう少し寝たかったのに…という思いがあったが、早く目が覚め仕事を早く始め、早く終わることができそうだという感謝に切り替えることができ、これまた神様の憐れみと思う。
2008年2月15日

訪問先での礼拝
 礼拝や祈祷会に出席することが本当に大好きだという方が、体調不良のためにこのところ教会をお休みしていたので、ご自宅を妻と訪問し、ミニ礼拝をする。賛美をし、み言葉を開いて短くお話をさせていただき、祈る。いつも、賛美や祈りはしていたものの、メッセージをするまでには至らなかったが、今回はご本人の体調も良さそうなので、そうさせていただいた。インターネット等便利になっているが、やはりお会いしてお顔を見ながら言葉を交わし、共に礼拝をささげることは必要のように思う。高齢となると、そういう機会が失われがちになる。これから、こういう機会が増えるかもしれないとも思う。
2008年2月14日

やっぱり新共同訳聖書
 日本聖書協会からいただいた冊子を見ていたら、今日本の教会で用いられている主な三種の聖書の使用比率のアンケート結果が出ていた。新共同訳聖書が61.5%、新改訳聖書が24.8%、口語訳聖書が19.2%だった。回答した教会がそれほど多くなく、聖書協会主催のアンケートなので、どれほど実態を反映しているかはわからないが、新共同訳聖書が半分以上になるだろうと思われる。私たちの教会も新共同訳聖書だが、使っているとわかりやすい部分と、ここは何とかならないかという部分と両方あることは否めない。いずれまたもっと良い聖書が翻訳されることを願う。
2008年2月13日

良い習慣をと願い…
 小学校入学のための説明会があり、妻が出かける。帰りに、学校で使う様々な学用品を購入してきた。いよいよ一年生なんだなという感謝が沸いてきた。机が届いて以来、夕食後に少しでも机に向かう習慣をつけさせたいのと、勉強は楽しいものだということを知ってもらいたいと思い、夕食後少しでも一緒に勉強をするようにしているが、喜んで机に向かってくれるので、嬉しく思う。この頃は、安価で楽しみながらできる教材も手に入るのもいいことだと思う。良い習慣をつけてあげられるよう、妻と二人でがんばりたい。
2008年2月12日

意識改革の必要性
 教会形成に関する本を読んでいて、私たちの教会はここが足りないと思うところがいくつかあることに気づく。とくに、福音を伝える対象を明確に定める必要があるというところなど、なるほどと思う。ただ、今の教会の構成を見つつ、人の思い以上に、主のみこころがどこにあるのかを求めていく必要がある。真似ではうまくいかず、自分たちの教会に合った方策を見つけ出していくべきだと記されていて、なるほどそうだろうと思う。自分自身も、もっともっと意識改革が必要なのだろうと思う。
2008年2月11日

梅があちこちで
 妻が東京に学びに行ったため、一日子守ということで、お弁当を作ってあちこちの公園に出かける。隣接している岡部町の比較的新しい貝立公園、藤枝の蓮花寺池公園などに行き、たっぷりと遊ぶ。このところ、毎週のように太平洋側の各地で雪が降ったニュースが聞こえてきたが、どの公園に行っても梅がかなり咲き始めていて、通りかかった丸子梅園でも梅がかなり咲いていて、春の到来の近いことを感じた。巡る季節を与えられる感謝を思いつつ、人生にも春夏秋冬があると、トゥルニエが書いていることを思い起こす。
2008年2月10日

天幕を広げよとの声
 「あなたの天幕に場所を広く取り、あなたの住まいの幕を広げ、惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。」(イザヤ54:2)というみことばが、今回の説教箇所に出てきた。これは、1792年に海外宣教の父と呼ばれたウィリアム・ケアリーが、このみ言葉から海外宣教の必要性を牧師らの前で説教し、自らインドに赴いて行ったということだ。現状にとらわれず、主のみことばを聞き、これに従っていく信仰が今日も求められているように思う。現状は、教会を取り巻く環境はそうよくはないだろう。しかし、それに飲まれず、生ける主の働きを信じ、祝福を求めて行きたいと思う。
2008年2月9日

大脳生理学的にも
 以前、車でラジオを聴いていた時に、大脳生理学者が出てきて、「朝が一番脳が働く。大切な仕事は朝の数時間にしている。」と聴いた。それ以来、自分も朝に大切な仕事をしようと心がけている。今日も朝から説教の準備をし、午後はこれまでに作ってあったプリントの校正など、比較的簡単な仕事で終えるように段取りをした。一日デスクワークとなると、午後は集中力がとぎれてしまい、気分転換したくなる時がしばしばある。朝の祈りと、朝の仕事をこれからも大切にしていきたい。
2008年2月8日

出席者の感想
 刑務所に教誨で、出席した方々に感想を書いていただく。人数が多くなると、どうしても話が一方通行になり安く、話していただいても、ひとりひとりの気持ちをなかなか受け止めることまでいかないからだ。今回は聖書の中のたとえ「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20章)から、神の恵みについて語った。神の恵みを知ってホッとされたということを書いている方が多いことを思った。厳しい環境の中で、自責の念を持ちつつ日々を過ごしておられるようだが(それもとても大切なように思うが)、それらを超えた神の恵みを思うひとときが、一層の力になればと思う。
2008年2月7日

質的成長か量的成長か
 新年度が間近になり、主の導きを求めて祈りつつあるが、教会形成に関する本などを読んでいる。その中で、「純粋に質的なものこそが、最終的には量的成長に影響を及ぼす」という言葉が目にとまる。霊的に成長している教会は、量的にも成長するということだ。時々、質的に成長を目指すということが、量的に成長しないことの言い訳のようになってしまうことがあるが、それはおかしいということを改めて思う。質的成長があるところに、量的な成長もあることを思い、進んでいきたいと思う。
2008年2月6日

教会を狙った詐欺
 朝、見知らぬ相手から英文のメールが届いていた。間もなく召されるので高額の献金をしたいとの内容だったが、ピンと来た。こちらから連絡をすると、口座開設のために費用が必要なのでお金を振り込めという、一種の振り込み詐欺だ。教会で用いられる言葉を使いながら、心の隙を見せたところにつけ込んでくる手法のようだ。以前、このようなメールが教会に来たという情報を何かで読んだことがあったので、ああこれかと思った。こういうことで被害にあってしまう教会もあるのだろうと思うが、何とも情けないというか残念な気がする。聖書を知り、教会を知っている人であるだろうから、自分の罪に気づき、愚かな犯罪を繰り返すのはやめてほしいと願うばかりだ。
2008年2月5日

百万人の福音を通して
 朝、少し遅くなったが百万人の福音2月号を読む。大きな痛みを経験する中で、主のみ旨を知り、神様に用いられている人、少子化の中にあって親子に対する新しい伝道の試みをしている教会の様子、またかつてベストセラーになった「純子よありがとう」を執筆した方々の後日談など読んで、感動すると共に考えさせられる。教会の周囲ばかりに視点が偏りがちの中にあって、いろいろな方の生き様に触れて、視点を広く持たせていただく必要を感じる。神のみこころを一層求めていきたいと思った。
2008年2月4日

娘の祈り
 子どもとおすもうごっこをしていて、知らない間に手を踏んでしまったようだ。食事の時、手が痛くておはしが持てないということで、医者に連れて行くが、幸い骨には異常がなかったようでホッとする。娘が、弟の手のためにすぐにお祈りしてくれた。これまでは恥ずかしがって、なかなか決まった言葉でしか祈ることのできなかった娘だったが、今日は何も言われる前に、自分から進んでそう祈ってくれて、本当に嬉しく思った。妻と二人で、「嬉しかったよ。ありがとう。」と伝える。娘も、照れてはいたが、嬉しかったのではないかと思う。
2008年2月3日

久しぶりの礼拝出席
 太平洋側でも各地で雪のようで、礼拝出席の妨げられた方も各地にはいらっしゃったと思うが、静岡は雨で、それほどでもなかったように思う。95歳と88歳のご夫妻が、久しぶりに礼拝出席され、本当に感謝だった。しばらく礼拝出席が困難だったが、娘さんが同居されることになり、デイサービスに通い始めて、元気が出てきたようで、今日も連れてきていただくことができ、礼拝に出席され何よりに思う。お疲れにならなかったかと心配もしたが、心がすっきりしたとお話しいただき、感謝だった。
2008年2月2日

妻の誕生日を祝う
 夕食時、妻の誕生日を家族で祝う。娘は妻の似顔絵を描き、妻のケーキ作りを手伝う。教会員の方や両親もプレゼントを持ってきてくださり感謝だった。妻が健康で誕生日を迎えることができたこと、またこれからも心合わせて主のご用ができるように、また子育てができるように皆で感謝して祈る。素朴な幸いなのかもしれないが、これが神様が与えてくださっている大きな幸いのようにも思う。
2008年2月1日

祈る国会議員
 朝祷会の話の中で、参議院のマルティ・ツルネン議員は、湘南地区のとある朝祷会のメンバーで、年頭集会にもいらしていたと伺った。また、国家祈祷会(正式な名称はよくわからないが)という国のためにクリスチャン議員らが超党派で祈る集会を、衆議院の土肥隆一議員らが主催して近々あるというニュースを聴いた。議員の方々も神に祈りつつ活動していらっしゃるニュースを聞き、頼もしく思う。またそういう議員の方が増やされることを祈りたいと思った。
2008年1月31日

塵は大地に帰り、霊は与え主に返る
 火葬場で遺骨となってしまった時、何とも言えず人の世のはかなさを思う。何度経験してもそうだ。しかし、聖書のみことばには、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」(コヘレトの言葉12:7)とある。人は土の塵から作られたのだから、もとの塵に帰っていくが、その霊は与え主である神の下に行くと…。なんと行き先がはっきりしていることだろうか。葬儀の時は一層、聖書のみことばの重みを感じる。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)とある。人間のはかなさを打ち破り、永遠の命を与えてくださる神にハレルヤ!
2008年1月30日

前夜式のあいさつ
 前夜式で、一緒に住んでおられた息子さんが、最後に挨拶をなさった。障害をかかえていたお父さんが、毎週日曜日の九時になると、ご自分から玄関に行き、靴を履いて待っていて、ある時「なぜ教会に行くのか」と言ったところ、「神に近づくためだ」とおっしゃったという。「父は天国に行ったことを確信しています」という言葉で挨拶を結んでくださった。私も「アーメン」と、心から同調し感動した。
2008年1月29日

突然の訃報に呆然
 82歳になる教会員の訃報に接し、病院に出かける。先日お訪ねした時はお顔色もよく、きっとまたお元気になるだろうと思っていた矢先だっただけに、突然の訃報に呆然とした。この方は、ご高齢になってからご自分から「私も教会に連れて行ってくれ」と、クリスチャンである息子さんに申し出られ、洗礼をお受けになった方だ。お体が動く間は、車椅子に乗ってでも教会にほとんど休まず出席された方だった。寂しさの中にも、主が天国へ導いてくださったことを確信しつつ葬儀の備えをしていきたいと思う。
2008年1月28日

恵朗クラブ再開
 地域の高齢者の方のための集会「恵朗クラブ」が今年もスタートする。今回は常連の方の中で2名が入院中ということで、いつもよりメンバーが少なく寂しかったが、奉仕者の方が多数駆けつけてくださり、なごやかなひとときを持つ。月に一度の集会だが、地域の方々が楽しみにおいでくださり、本当に感謝だ。地域との重要な接点のひとつだと思う。今回も、教会員の手作り料理でおもてなしをしていただく。あたたかなシチューと大根やこんにゃくの田楽など、手前味噌だが、心も温まった。多くの方にこの会のことを知っていただき、気軽においでいただけるようになればと思っているが、もう少しいいアピールの方法を考えねばと思う。
2008年1月27日

子どもたちを何とか…
 礼拝後、教会学校の教師会があり、新年度に向けどうするかなどを話し合う。このところ感じるのは、以前のように子どもたちが教会に集まらなくなり、子どもたちを招く手段も限られてきたということだ。保護者の方々も、どうやって子どもを守るかを真剣に考えねばならない時代のように思うし、おかしな宗教の影響もあって、教会もそれと似たようなものという印象を持っている方も多いのではないかと感じさせられる。何とか子どもが安心して教会に集えるよう、今集っている子どもたちを大切にしつつ、子どもたちや保護者の必要性を見いだし、そこに働きかける方策を考えていかなければならないことを思わされた。
2008年1月26日

考える力の不足
 夕方、NHKの週間こどもニュースを見ていたら、日本のこどもは知識はあっても考える力が低下していると報じられていた。最前線の作家やスポーツ選手やパティシエに、どんな考える力を大切にしているかというインタビューは、なるほどと思わされた。(それぞれ、妄想力、判断力、想像力だと話していた。)牧師はどんな考える力が必要だろうかと考えさせられた。それは、考える力ではないかもしれないが、み言葉を通して神のみこころを感じ取ることかな…と思わされる。洞察力か。表現力なども、説教をする上では大切かもしれないし、考える力ではないけれど、愛の配慮も大切だと思うが、自分はどれも不十分と思う。でも、「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、…神に願いなさい。」とヤコブ書にあるので、神に求めていこうと思う。
2008年1月25日

娘の雪見遠足
 保育園の卒園遠足があり、雪見ということで、富士山の遊園地に雪遊びに娘と妻が出かける。雪見というのは、静岡ならではのようで、娘もこれまで雪を見たことはあったものの、実際触れたり遊んだりしたのは初めてで大はしゃぎだったようだ。先週も太平洋側でも各地で雪になったが、静岡市街は全く降らなかった。妻も四国出身だが、四国でも時々降ると言っていた。富士山は快晴で風もあまりなく、楽しめたようで、娘は帰って来るなり、「雪を食べちゃった…」と報告してくれた。雪見遠足というのは全国的に見ても珍しいらしく、共同通信社の記者が終始同行したとの事だった。
2008年1月24日

病床にあっての平安
 ひとりで三つの難病を抱えていらっしゃる方がいるが、その方が入院されたと聞き、病院をお訪ねする。この前の日曜日、皆で訪ねたばかりだったが、その時は大変そうだなと思ったものの、何とかお一人でがんばっていらっしゃったので、知らせを聞いて驚く。ただ、病床にあっても悲壮感ではなく、感謝を口にされ、周囲の皆さんを配慮していらっしゃるのは、主の平安が与えられているからと思い、御名を崇める。信仰・希望・愛とあるが、主がこういう時にこそ臨んでくださり、そういう思いを与えてくださるのではないかと思う。このところ、長い間教会を支えて来られた方が病気になられることが多く心配だが、主が最善をなしてくださることを信じたい。
2008年1月23日

母が足の痛みを訴える
 母が、足が痛いと言って、買い物に行くことができなかった。高齢になる今日まで、母の健康のことではほとんど心配することなく過ごしてきたが、そういう年齢になってきたのだと思わされる。忘れるほど健康であったことはどんなに大きな恵みであったかを思うと共に、母の癒しのために祈らされる。また、立場上毎週数名の病気の方、高齢者の方を訪問しているが、体が弱っているということ、特に日常的にそうだということがどんなに大変なことかを考えさせられる。主がそういう人々の心の深いところに語りかけてくださることを信じつつ、自分は何もできないが、心して牧会したいと思わされる。
2008年1月22日

近くの山々は雪
 昨日は雪が降るのではと、天気予報を見て子どもたちはすごく期待していたが、残念ながら雨だった。朝、訪問に行く途中、竜爪山など近くの山々を見ると白くなっていて、すぐ近くまで雪が降ったんだということを再認識する。山々を見ていて、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」というイザヤ書のみことばを思い起こし、主にあって罪が赦されている恵みを感謝する。夕方、天気予報を見たら、明日も雪かもしれないとのこと。また、静岡は雨ではないかと思うが…。
2008年1月21日

祈りを教えることは…
 教会学校教案誌の締め切りが迫っていたが、今回も何とか締め切り前に提出することができ、ホッとする。今回は祈りについて5回分の執筆だったが、子どもたちにはもしかするとあまり人気のないところかなと思いつつも、どう祈るかを導くことは、どのように信仰を持つかということに直結するので、そんな思いを持ちながら執筆する。諸教会でどの程度お役に立つかはわからないが、主にあって用いられるよう祈りたい。
2008年1月20日

麦踏みによって
 先週麦踏みの話を聞き、それを説教の中でも用いた。麦は芽がまだ5cm位の時、芽を踏んでしまい、その上に土をかけるそうだ。そんなことをして大丈夫だろうかと思うが、そうしないと、成長し穂が実る時、重くなると折れてしまうのだそうだ。ところが、麦踏みを経た麦は、2cm位のところに、節ができて太くなり、それで結実の重さにも耐えられるという。主にあって、人生で経験する試練はまことにそのようだと思う。スポルジョンは、試練のないことはむしろ不幸だと記しているが、当座は喜ばしくなくても、主がそれを節のようにしてくださり、結実に至らせてくださることを思う。
2008年1月19日

必要なことは一つだけ
 昨日の朝祷会は、ルカ10章のマルタとマリアの箇所からのメッセージだった。マルタも、形こそ違えイエス様のために一生懸命しようとしていたのに、どうして…と思えることがあるけれども、最初はそうでも忙しさのあまり当初の目的を見失ってしまったと話され、なるほどと思った。牧師たちも、主のためといろいろ始め、それで超多忙になってしまい、本当に大切なことを見失ってしまうことはあり得ることだと思った。「必要なことはただ一つだけである」(ルカ10:42)とある。本当に主の前に静まり、み声を聴き、それを伝えるものでなければならないと改めて思う。
2008年1月18日

喜びを分けていただく
 昨晩、兵庫の甥から出産1ヶ月の男の子が専門病院で心臓の手術を受けることになったので祈ってほしいというメールが入っていた。両親のところにも、昨晩姉から電話があったそうだ。朝から幾度となく祈らされ、家族とも祈った。赤ちゃんの心臓と言えばどんなにか小さいだろう。甥夫婦が病院の中で祈っている姿が頭に浮かんだ。午後3時頃だっただろうか。本当に嬉しそうな声で、「手術が成功しました」と電話があった。その感動と喜びに私たちも共に預からせていただき、心から主に感謝する。
2008年1月17日

誕生日を祝ってもらう幸い
 今は阪神大震災の日として知られたこの日は、私の誕生日だ。独身の時も母が私の好きなおかずをさりげなく準備してくれていたが、結婚してからは家族が楽しみに祝ってくれる。自分よりも、子どもたちの方が楽しみにしていたかもしれない(ママのケーキが食べられるからかも…)。教会員の中にも、わざわざお赤飯を炊いて持ってきてくださった方もあった。年齢を重ねると、誕生日というとむしろ気恥ずかしさを感じるが、主にあって歳を重ねる喜びをもっと実感しなければならないと思う。その人がこの世に誕生したことを喜ぶ、存在そのものを喜んでもらえる日なのだから…。
2008年1月16日

遠方よりの助け
 私が、毎週土曜日朝5時から第一テレビで放送している福音放送「ライフライン」の事務を担当していると知って、ひとりの姉妹が浜松から私たちの教会に立ち寄ってくださり、献金をささげてくださった。福音放送は62の教会の協力の下で行われているが、費用もかかりこのところ赤字幅が大きくなり、苦闘していた。そういう方がいらっしゃったということで、どんなに励まされ、助けられたことか。神様がそういう人を起こしてくださり、放送を続けさせてくださることを感謝しつつ、いい番組なので多くの人に見ていただきたいと一層アピールしていく必要性を感じる。
2008年1月15日

テープを聞いて
 訪問に行く途中の車の中で、もう10年近く前の聖会のテープを聞いた。私たちの結婚式の司式をしてくださった先生からいただいたもので、聞く機会のないまま置いてあったものだ。同盟の下北沢教会の馬場先生の説教だったが、先生は目がご不自由らしく、大きな試練の中を通ってこられたようで、その言葉にはとても力があった。いつも自転車やバイクで訪問に行くことが多く、テープも聞く機会がなかったが、これから車で出かけた時はそういうテープを聞かせていただくことはとてもいいことだと再認識した。
2008年1月14日

信仰の先輩を記念して
 10年前に天に召された教会員の記念式に、両親と共に出かける。墓前でしばし賛美と祈りとみことばの時を持ち、ご兄弟の皆さんが招いてくださって昼食をご一緒させていただきながら、お母さんのお話などを伺う。若いときお母さんが困難の中にあってもいつも口ずさんでいたみことばと讃美歌を聞きながら育ってこられたことや、それが数十年経った今でもしっかりとそれぞれのお心に刻まれていることを思い、クリスチャンホームはこうあるべきかと教えられる。真にみことばに立って歩むことが乏しくなっているのではないかと思う時代にあって、そう歩む時に主がどんなに祝福してくださるかを心に刻みつつ、そういう信仰の遺産をこそ大切にしなければならないことを思う。
2008年1月13日

久しぶりの来会者
 今日の礼拝では、諸事情でお休みされる方も多かったが、久しぶりにおいでになる方がひとりあった。新しくおいでになる方があることも嬉しいことだが、久しぶりにおいでくださる方があると、本当に励まされる。それぞれ事情があって、おいでになれなくなる場合もあるだろうが、一度休み出すとなかなか来にくくなってしまうものではないかと思うが、また神に近づこうとおいでになるということは、一大決心ではないかと思う。神の一層豊かな祝福があるようにと祈らされる。
2008年1月12日

教会の印刷物
 教会は印刷物が多い。今週も8ページ分の印刷物を作り、その作成にかなり時間がかかってしまった。報告書のようなものは1ページ一時間もかからずにできるものもあるが、何か学びの資料等となると、いろいろ調べたりして書かなければならないので、数時間かかってしまうものもある。せっかく苦労して作っても、いつの間にかどこかにうもれてしまい、十分に用いることのできないものもある。作成と同時に整理の大切さを思う。できたら、インデックスをつけて、パソコンで簡単に検索できるようにしておくとなお良いのだが…。どこの教会でもそうだろうと思うので、そういうものを共有できたらすばらしいと思うが…。
2008年1月11日

ちょっと裏山にお散歩
 仕事の合間に、ちょこっと裏山に散歩に出かける。昼休みなど、いつも漫然と過ごしてしまうことが多いが、少しは健康にいいことをしようと歩いてみる。教会の裏山の谷津山の頂上まで、教会脇の山道を登って8分余りだ。ちなみに標高は108m。頂上からは静岡市内がぐるりと見渡せる。この町にクリスチャンは何人位いるだろうかと思い祈らされる。帰りに少し違うルートを通って帰り、30分で2500歩位か。夏は蚊が多くてとても歩けないが、冬は風が強くなければ気持ちよく、これからもときどきでかけてみようという気になった。
2008年1月10日

誠意を表す
 昨日、妻が連合会の仕事で自転車で出かけた時、横断歩道で車に接触されてしまったらしい。幸い、妻も自転車もほとんど無傷だったようだが、その時運転していた方が昨日夕方教会をお詫びのために訪ねて来られ、また今日も電話をしてこられた。加害者となると、体裁も悪くてなかなかこうはできないと思ったが、その方はたいした事故でもなかったのに、誠意を表してくださった。自分がこのような立場に立った時、こうできるだろうかと思いつつ、かえって教えられたような思いになった。また、妻も守られ、何より感謝だった。
2008年1月9日

忙しいから祈る?
 今日の午後の祈祷会は、妻の説教の番で、マルコ1章から説教した。その中で主イエスは本当に忙しい中にあっても、朝早く暗いうちから祈っていらっしゃったと記されていたことに触れた。自分も、朝5時には起きて祈ってはいるものの、仕事がたくさんあるとついそちらに気を取られて…ということが何と多いことか。宗教改革者ルターの日記にも、「今日は忙しいので3時間祈らざるを得なかった」というような文章があると聞いたことがある。忙しいからこそ祈る。そんな祈りができるようにしていただきたい。
2008年1月8日

信仰の財産が与えられるとき
 ある姉妹が転倒し、骨折してしまったと聞き、妻と共に病院を訪ねる。「皆さんに迷惑をかけてしまって…」というお話を伺い、どんなお気持ちでいらっしゃるかと思うと、心が痛む。私も7年余り前に自転車で転倒して骨折、入院したことがある。当初は焦る気持ちもあったが、お任せしようという気持ちに少しずつなっていった。また、そういう時に経験させていただく心の変遷は、自分にとって信仰の財産にもなった。神様は試練の時にこそ、そばにおいでくださり、支えてくださる方だ。順調な回復が与えられるように祈りたい。
2008年1月7日

クリスマスシーズンを終えて
 教会の暦では、1月6日の公現日までがクリスマスシーズンなので、昨日まで教会でもリースなどクリスマスの飾りを残しておいたが、今日その片付けを始める。娘には「いつまで出しておくの」と何度か聞かれ、こうなんだよというのを何度か話す。お正月を過ぎても出しておくのは、何か忙しくて片づけそびれたのではないかという印象を与えてしまうようだ。次のクリスマスに探さなくても済むようにまとめてしまっても、一年の間に物置の中であちこち動かされてしまうのだ。今年もそういえば、ツリーの台が見つからず、植木鉢に石を入れて立てる始末だったが…。
2008年1月6日

私の周囲のクリスチャン
 礼拝後、愛餐会(昼食会のこと)が行われ、今回のテーマは「私の周囲のクリスチャン」だった。ある方は、旅先で出会ったクリスチャンを、ある方はインターネット上で出会ったクリスチャンの友を、ある方は信仰に導かれるきっかけとなった方を、ある方は日頃お世話になっている他教会の方を、またある方は家族や親族の方を紹介してくださった。神様は私たちの周囲にそういう方を置いてくださり、励まし、導き、支えてくださることを実感した。いいお話をたくさん聞かせていただいて、感謝のひとときだった。
2008年1月5日

主の守りを祈る
 明日の礼拝のため、会堂の清掃に来てくださった方が、用具入れのところで倒れ込んでしまった。一瞬フラッと来たようだった。幸いすぐに起きあがって、以後何ともなかったようだ。守られたことを心から感謝する。朝飲んだ薬の影響もあったか、お疲れだったのか、そんな中で礼拝の準備のためご奉仕いただいて、申し訳なく思った。一日何度かそのことを思い出し、主の守りを祈らされる。
2008年1月4日

問題づくりに足踏み
 実りの会という教会学校の一般の部(成人対象)を行っているが、そのテキストを作成する中で、問題を作成する難しさを感じる。最後に2問程度の問題を作成し、それを皆さんで話し合いつつ進めていただいている。特に、旧約聖書概論の方は、解説を作成し、これを信徒の皆さんにどう受け止めて(適用して)いただくかの問題づくりに、いつも悩まされる。専門的すぎてもいけないし、何か役に立つものをと思うと、なかなか思いつかない。今日も、いろいろ考えた挙げ句、あまりいいものが思い浮かばず…。それでも、いつも一生懸命学んでくださる信徒の皆さんに感謝する。
2008年1月3日

娘の机を見て廻る
 この春小学校に進学する娘の机を見に行く。長年使うものなので、よく見て選びたいと、ゆっくりと見て廻る。私も小学校入学の時に買ってもらった机を、今も牧師室で使っている。これも、妻の実家の両親が「机を買わせてもらえるなんて嬉しい」と言って、資金を提供してくれたからだ。そのような両親の言葉に本当に感謝する。何かと入り用の時に、ついつぶやきが出てしまいがちだが、そのような言葉が言える者となりたいと思った。
2008年1月2日

子どもたちと遊ぶ
 朝から子どもたちと動物園に行ったり、教会の庭でかくれんぼやおにごっこをしたり、かるたなどをしたり、のんびりと過ごす。動物園も家族連れが多く、おばあちゃんも一緒などという家族もたくさんあった。どの子どもたちの表情も嬉しそうだった。どんなに高価なおもちゃを与えるより、一緒に家族と時を過ごすことが、子どもたちにとっては何より楽しいのではないかと思う。テレビも、お正月の特別番組をたくさんやっているようだが、できるだけ消して、いろいろ話しつつ過ごすことの大切さを思う。
2008年1月1日

新年連合礼拝
 当教会の元日礼拝を終え、市内の連合礼拝に出かける。メッセージを聞かせていただく機会は貴重な機会で、年頭に恵みをいただき、感謝だった。また、今回は諸教会の近況報告の時が設けられ、各教会の牧師などが、それぞれの教会の近況について報告される。牧師が最近変わった(これから変わる)という教会も多く、そういう時は何かと大変かと思うが、覚えて祈らせていただきたいと思った。17教会から71名の参加だったとか。当教会からも8名出席してくださり、多い方ではなかったかと思う。新しい年、主の導きに大いに期待しつつスタートしたい。