2006年5月31日

駿府学園に行く
 今日は駿府学園で講話の奉仕をした。駿府学園というのは、かつては少年院と呼ばれていた施設である。静岡は、たしか14歳から17歳位の少年たちが50〜60人であったと思う。私は刑務所にも教誨師として出入りしているが、駿府学園の少年たちは、表情も純朴で町中で見る若者となんらかわりがなく見える。何があって、今ここに来なければならなかったのかはわからないが、彼らの更正を心から願いつつ、人間関係の要点について、聖書の中からお話しさせていただいた。あの少年たちも、むしろどこか被害者ではないかという気がしてならなかった。
2006年5月3日

家庭菜園を始める
 子どもが大のトマト好きなので、昨年はおじいちゃんが植えてくれたが、今年は自分達で植えようと、トマトの苗を4株、ついでにきゅうりやなす、いちごも購入。全部で8鉢の家庭菜園を作った。鉢や土などを購入したら、6000円以上かかってしまい、何とも高くついてしまった。まだ、肥料なども買わねばならないと思うと、元は取れないかな…と思ったりもする。それでも、野菜の成長を見るのは楽しみだし、子どもたちも喜んで植えて、水をやったりしていた。こんな小さな株が、あっという間に成長し、たくさんの実がなるのだから、本当に不思議だ。神様のみわざを覚えずにはおれない。
2006年2月5日

自分で稼いだお金?
 先日の朝祷会(朝のお祈り会)のとき、「あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり…」(申命記8章)が開かれた。富を築く力を与えたのは、神様だと…。この頃、お金にまつわる大きな事件が起こったが、富を持つと人間はやはり傲慢になってしまいやすいものだ。アメリカでは、富を持つ者は、それを社会に還元することを積極的にしていると聞く。ビル・ゲイツ氏も難病のために、多額の研究資金を提供しているとか…。日本人のプロ野球選手も、大リーガーの多くがそのようなお金の用い方をしていることを学んでいるようだ。日本ももっともっとそのようになってほしいと思う。お金持ちばかりでなく、貧しくあってもそうありたいものだ。
2005年11月27日

会堂増築完成!
 会堂増築と牧師館が完成し、礼拝後に竣工感謝式を行う。賛美の中に、「うれしうれし祈りは聞かれぬ」という歌詞を見いだし、本当に主が私たちの祈りを聞いてくださったと、感謝で胸がいっぱいになる。思えば、約一年前に、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(フィリピ4章)のみことばが与えられ、神のみこころと確信し、教会員の皆さんと相談しつつプランをまとめ、実現に至ったことを思う。ただ、神様は今後のご計画があるからこそ、会堂を与えて下さったものと思うので、そのことを思いつつ、これからまた新たな思いで進んでいきたい。

2005年9月30日

子どもに対する小さなひとこと

 ドレッシャーという人の書いた「若い父親としての10章」という本がある。30分もあれば読める本だが、自分の父親としてのあり方を顧みるいい本だと思うので、時々読み返すようにしている。今娘が4歳で、息子が2歳、二人ともかわいい盛りだが、子育てにとっては大切な時期のように思う。不断、何気なく言っている言葉で、子どものやる気や自信を失わせてしまってはならないと思う。今のようなかわいい時期、楽しい時期はあっという間に過ぎてしまうようにも思う。後悔しないためにも、今という時に、子どもにどう向き合うか、どういう言葉をかけるかを注意していきたいと思う。神様から託されている大切な子どもたち。その成長を楽しみにしつつ、日頃の接し方にもっと気を配らなければ…。改めてそのようなことを感じさせられた。

2005年8月11日

サマーバイブルキャンプ終了!
 今年も夏の子どもたちのプログラムとして、サマーバイブルキャンプに参加した。8教会合同の80名位のキャンプだったが、当教会からは13名で参加した。子どもたちの純粋な気持ちで神を賛美し、またみことばに聞こうとする姿勢にはいつも感動させられる。私たちの教会からは初参加の子どもたちも多かったが、それぞれ神の愛を実感するきっかけとなってくれればと思う。これからの社会、どうなっていくかいろいろ不安のある中、神様にしっかりつながってくれれば、どんなにか祝福された、また有意義な生涯を歩むことができるかを思い、一層祈りつつ子どもたちと接していきたいと思う。それにしても、ちょっと疲れたかなあ…。
2005年7月27日

会堂増築の準備始まる!
 会堂の増築、牧師館の新築のための準備が始まり、植木の撤去作業が始まって3日(台風でお休みもあったので実質2日)、大きな重機であっという間に作業が終え、今まで植木に隠れていた土地が現れた。2本の杉や大木の桜を始めとして、隣地との教会にも竹や槇の木があったが、隣の家もすっかりよく見えるようになった。それらはちょっとした目隠しになっていたが、何もかもあらわにされた感じがした。お互いの心も、ちょっとしたもので目隠ししているつもりかもしれないが、それらが撤去された時に、本当の中味が暴露される。そんな時、自分の心の汚さに愕然とさせられるのではないだろうか。何とかきれいにしたい、でもきれいにできない。そんなことで悩まされるのではないだろうか。主イエスは、十字架の恵みによってそれら一切を拭い、きよめてくださる方だ。主の恵みはなんと深いことだろう。
2005年6月27日
 
嬉しい電話があった!
 昨日、子どもたちのためのクッキー大会を開き、初めての子どもたちも何人か参加した。その中で、今日突然にとある保護者の方から電話があり、「家の子が、とっても明るくいい子になって帰ってきました。本当にありがとうございました。」という感謝の電話があった。とっても嬉しかった。ほんの2時間くらいのプログラムでは、何もできないと思いがちだが、神様がその心に働きかけてくださるとき、思わぬことがなされるものだ。最近では、教会に対して警戒心を持たれる保護者の方も多いと思うが、そんな中、本当に開かれた心をもって、教会の働きを見ていてくださる方もいると知り、嬉しくなった。「この町には私の民が大勢いる」という主の言葉を思い起こし、とっても励まされた。
2005年5月27日

子どもを叱って…
 あと2ヶ月足らずで4歳になる娘は、ふだんは明るい子だが、一度ぐずり出すと、手がつけられない。特に、お昼寝から起きて、まだ眠い時など、20分はぐずり続け、いろいろ言いがかりをつけてくるようになる。今日も、そうなってしまって、20分は放置していたが、それを過ぎてもぐずり続けた。とうとう心を鬼にして叱ったものの、子どもにはなかなか伝わらないなと思った。「わがまま言っちゃだめだよ」「わかった」「何で叱られたか分かる?」「パパがビスケットを取ったからパパが悪い」「…」。聞いてみると、子どもにとって嫌だったことが心に残っているだけで、自分がわがままを言ったから叱られたということはあまり分かっていないようだった。改めて子どもを叱る難しさを感じた。ただ、親の言うことを聞かせようとしても良くないし、何か物を与えて慰めようとしてもよくない。真剣に接しつつも、愛と忍耐をもって諭していかなければと思った。父なる神も、なかなか分からない私たちを、どれほど愛と忍耐を持って見ていてくださるだろうかと思わされた。
2005年4月24日

礼拝を喜ばれる神!
 今キリスト教界で静かなブームを巻き起こしている本の中に「人生を導く5つの目的」という本がある。その中に、神は私たちの献げる礼拝を喜ばれるということが記されていた。礼拝を受けて喜ばれるだなんて、何だか低俗な感じがしないでもないが、聖書にご自身を表しておられる神は、ちょうど親が我が子を愛し、我が子を思うように、私たちのことをいつも心にかけていてくださるというのだ。また、私たちが人に褒められ嬉しいと思うように、まして親が我が子に感謝されてとても嬉しいように、私たちが神を賛美し、神に感謝することを喜んでくださるということを読んで、なるほどそうだと思った。何だか人間のような神だなあと思うが、それもそのはず。聖書には、人は神に似せて創造されたとある。神が人に似ているのではなく、人が神に似ているのだ。今日の礼拝で神を賛美している時、神もこれを喜んでいてくださると思うと、何だかとても嬉しくなった。そんな神との人格的な交わりの中で礼拝をささげることができることを、心から感謝した。
2005年3月15日

記念誌の原稿完成!
 と、とうとうやった!記念誌の原稿が完成した。これまでは、信徒のどなたかに担当していただくことが多かったが、今回はどうしても私がやらなければならなくなり、80周年は既に一年以上前に終えているにもかかわらず、なかなか仕事がはかどらず、目の上のたんこぶのような状態だった。昨年、完成間際になった時に、これまで天国に召された方についても何か書いて残しておこうということになり、またそれがいろいろ調べて書くのに大変で、教会員の皆さんにも手伝ってはいただいたものの、二十数名分の追悼文を書くことになったので…。でも、苦労して書いてよかったとも思う。多くの人に読んでもらって、信仰に生きることのすばらしさを知っていただければと思う。
2005年3月10日

大木の根を掘りだした!
 今年、教会の増築を計画しているということもあり、また、駐車場を少しでも広くしたいと言う願いもあって、このところ、教会員の兄弟の手を借りて、教会の植木を整理していた。会堂脇に、高さ10mはあろうかというあすなろの木があったが、台風等来る度に倒れるのではないかと心配で、また根が盛り上がり、建物に影響しかねない状況だったので、切ってもらうことを決断(寂しい思いもあったが…)、上を切るのは比較的簡単だったが、根を掘るのがとても大変で、教会員の方で、ユンボを運転できる方が、二日がかりで大きな根を掘りだしてくれた。根は見えないところにあるが、やっぱり大きかった。わたしたちの人生にとっても、普段は見えない根がどこにあるのか、またしっかりしているのか、それを問われるように思う。
2005年1月28日

「恐れることはない。ただ信じなさい。」
 朝のデボーションの時、「恐れることはない。ただ信じなさい。」(マルコによる福音書5章36節)が与えられた。重大な祈祷課題があって、そのために特に祈っていたときに、神がすぐみ言葉をもって答えてくださったように思った。神様に近づくとき、神様は、それまで絶対手放せないと思っていたこともすっきりと手放させてくださるし、いよいよ神様の語りかけが心に響いてくるようになる。そういう霊的な世界のあることを、多くの人に体験的に知っていただきたいものだ。
2005年1月22日

プ、プリンタが…。
 先日、ファックスが壊れてしまって、新しいのを購入したばかりだったが、今度はプリンタが壊れてしまった。一応修理に出してみようとは思うが、8年近くも使ってきたものなので、そろそろ引退かなと思う。壊れる時にはいろいろ続くものだと思う。人生も、不思議といろいろ重なって起こるものだ。でも、信仰者にとっては、そういう時にこそ神様の恵みを一層深く感じることのできる時だということを思う。主の恵みは何と深いことだろう…。
2004年11月22日

おまわりさんに止められてしまった…
 買い物の帰りに、白バイの警察官が、私に止まれと合図をする。イヤーな予感がした。でも、シートベルトはしているし、携帯電話もかけてないし、信号停止から走り始めたばかりなのでスピード違反でもなさそうだし…。そうしたら、「信号は見ましたか」「何色でしたか」と聞かれた。確信をもって「青でした」と答えると、その横にあった標識を見たかと言われてしまった。その横の標識…?信号ばかりを見ていて、信号についていた標識を見落としていた。左折禁止のところを、左折してしまっていたのだ。幸い「今後はよく見て注意してください」でいいにしてくれたので良かったが、冷や汗ものだった。
 聖書を読む時にも、見落としていることが案外あるのかもしれないと思った。注意深くみことばを読み、一層みことばに生かされる者となりたいと思うこの頃だ。
2004年11月8日

初めてJAFのお世話になった…
 藤枝に子どもたちと一緒に遊びに行った帰りの車の中で、変なにおいがしてきた。じ、自分の車だ!何と国道一号線でオーバーヒート!車検も10日程前に済ませたばかりだったのに…。幸い早く気がついたので、路肩に寄せることができ、夕方の大渋滞を巻き起こさずに済んだのは主の憐れみだったかもしれない。それにしても、近所の人や通りかかった人が親切な声をかけてくれ、どんなにか嬉しくまた勇気を与えられたことか。私もそのようでありたいとつくづく思わされた。
2004年10月11日

やっぱり家庭が基本
 2年前に私たちの教会で結婚式をされたカップルが教会を訪ねてくださり、楽しいひとときを持つことができた。幸せそうに暮らしていらっしゃることを伺い、本当に嬉しくなった。かわいいお子さんまで与えられて喜びいっぱいのようだった。やっぱり家庭が基本だと思う。どの家庭もこのように夫婦愛し合い、信頼しあうことができたらと思う。そのためには、お互いのちょっとした努力や忍耐も必要だと思う。それこそ本当の愛ではないだろうか。
2004年9月12日

洗礼式に感動…
 今年3回目の洗礼式があった。洗礼式は、何度あっても感動だ。式の中で、洗礼を受けられる方に対する問いかけと答えがあるが、その中で、しっかりと答えをされる様子を見て、神様がこの方をここまで導いてくださったことへの感謝と、天では大きな喜びがあることに思いを馳せ、思わず胸がいっぱいになった。若い求道者の方も、何人か出席しておられたので、続けて洗礼を受ける方が起こされることを、心から祈りたいと思う。
2004年8月6日

天国にお送りして
 77歳の方が今日召された。信仰生活50年以上の、私たちの信仰の大先輩だ。ご家族や教会の何人かの兄弟姉妹と共に、臨終に立ち会うことを許された。息を引き取られる直前、看護婦さんが血圧を測りに来られましたが、まだ息はしておられましたが、脈が弱くなっていて血圧を測ることができないということだった。奥様もクリスチャンでいらっしゃったので、私は耳元で大きな声で、「○さん、天国が近づいたようですよ。でも、何にも心配入りません。イエス様とお会いできますよ。私たちもいずれ行きますから。天国に行っても、ご家族や教会のために祈ってくださいね。今まで本当にありがとうございました。」と言い、お祈りをした。「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者はたとい死んでも生きる。」というイエス様の約束の言葉が、もう一度はっきりと思い出された。静かな安らかな臨終でした。本当に穏やかな顔をしておられ、自分もこのように召されたいものだと思った。死を迎えてなお、絶望ではなく、天国にお送りすることができる福音の希望を、改めて感じさせられた。
2004年7月26日

恵朗クラブ15周年
 私たちの教会では、近隣の高齢者を招き、月に一度恵朗クラブという集会を持っている。クリスチャンではない近隣の方が多数集ってくださり、聖書のお話をし、讃美歌を歌うほか、季節の歌や折り紙など、ちょっとしたデイサービスのようだ。そして何より好評なのが、教会の婦人会の皆さんの手料理を食べていただくことだ。これも、安い費用で、教会員の方々が心を込めて作ってくださっている。今日、その集会の15周年を祝うことができた。長い間積み重ねてくることができて、本当に感謝だ。地域の方々にも開かれた教会であり、また少しでも仕える教会でありたいと願っている。地域社会にどのようなニーズがあり、どのように仕えていったらいいのか、これからも考えつつ模索していきたいと思わされた。
2004年6月24日

接触されてなお反省…
 病院のお見舞いの帰り、病院の前の横断歩道を自転車で渡っていたところ、右折車に接触されてしまった。相手の運転手は左側ばかり見ていて、右側を横断中の私に気付くのが遅れたようで、危ないと思った瞬間にはぶつかっていた。幸い相手が急ブレーキをかけたので、私も転ぶまでは至らなかったが、足をぶって、私の自転車にも車がぶつかった。正直ムッとして、こちらは横断歩道を横断中なのにと思ってしまった。相手の方が「全面的に私が悪いです。すみません。」と言ったが、ムッとした気持ちはすぐには晴れなかった。幸い主の憐れみで怪我や損害にはいたらず、そのまま別れたが、後になって思ったことは、たいしたことはないと分かったのに、「大丈夫です。いいですよ。」とすぐに言う気持ちになれなかった自分が恥ずかしいと思った。聖書は、あなたも神にあって許されたのだから、人を許しなさいと教えている。それを、すぐに思い起こし、実践できなかった自分を深く反省させられた。
2004年6月12日

明日は「花の日」
 明日は「花の日」だ。教会では、お花を持ち寄って、病気や高齢者の方、また公共施設などを訪問する。教会学校では、今年は消防署に行く予定だ。教会員の方が、素敵なお花を準備してくださった。最近は、自分のよく知らない人に、感謝を表すことが難しい時代になってしまっているようにも思う。当たり前のいいことがなかなかしにくい時代になっているような感じがする。何か下心があるのではないかとか、犯罪につながったりしないかとか…。何か寂しい時代になっていくような気がする。そんな中、ひとりではできなくても、みんなで力を合わせてきることをしていきたいと思うこの頃だ。
2004年5月1日

映画「パッション」を見た
 本日公開の映画「パッション」を見た。passionとは、情熱という意味の他に、キリストの受難という意味があるが、文字通り、イエス様の十字架を中心とした映画だ。ゲッセマネの祈りから始まり、十字架、そして最後にほんのわずかではあるが、復活。衣装を始めとして、ローマ兵の残忍さなど、歴史的かつ聖書的であると思った(一部の想像はあるものの)。イエス様の十字架がどんなに残酷なものであったかをリアルに描きながら、主の受難の意味を視聴者に深く問いかける作品だったように思う。私は、こういう映画を何種類か見ているけれども、聖書をあまり知らない人や、こういう映画を見たことのない方は、かなりの衝撃を受けるのではないかと思った。かく言うわたしも、意を決して行ったが、残酷でリアルではあるものの、残酷さだけを売り物にする映画とは一線を隠していると思った。ところどころに、イエス様の弟子たちへの語りかけ等が挿入されていて、語りかけが込められているように思った。こういう映画を通して、一人でも教会に導かれる人、聖書を読んでくださる人が起こされると良いと思った。