2008年4月30日

突然に
 教会では、牧師が生前一度もお会いしたことのない方の葬儀をするということはほとんどないが、今回そういうご家族の方からぜひキリスト教式で葬儀をとご連絡をいただき、お話を伺って、お受けすることになる。先年召された教会員のご兄弟でもある方だ。突然の死で、生前に聖書のこと(福音の中心)をお話しする機会が持てなかったことは残念だが、ご親族もどんなにかショックを受けられたかを思う。ご家族に主の慰めがあるように、祈りつつ備えたい。
2008年4月29日

家族でお出かけ
 家族で富士山こどもの国に遊びに出かける。子どもたちがまた行きたいとずっと言っていたが、なかなか連れて行く機会もなかったが、ようやく出かけることができた。牧師だと、土日は家族で出かけることはできないので、自分も子どものころは、父が祝日にドライブなどに連れ出してくれたことを思い起こす。祝日はなかなか混雑もしていたが、さすがに富士山の裾野とあって、涼しく新緑がとても美しかった。おいしい空気もいっぱい吸ってリフレッシュしたひとときだった。
2008年4月28日

久しぶりの来会者
 恵朗クラブという地域の高齢者のための集いに、久しぶりにおいでくださった方があった。90歳を過ぎた方だが、昨秋より腰を痛め入院等なさっていたが、退院され出席して下さった。この位の年齢になり、足腰を痛められると、気力すらも衰えてしまうことが多いが、「寝ていても治らないので、思い切って入院して、リハビリをしてきた」と話しておられた。何か自分のことのように嬉しく思った。生き甲斐(それが問題への対処であっても)と気力があることが、健康で長生きする上で大切なことのように思う。
いてくれるだけで嬉しい。高齢になってもそんな存在でありたいものだ。
2008年4月27日

妻の説教を聞きながら
 二ヶ月に一度は妻の説教の日だ。妻の説教をじっくり聞きながら、自分の説教のあり方を思う。説教の内容もそうだが、話し方のスピード、間の取り方、視線など、妻の話し方を見ていて、自分もどうだろうかと考えさせられる。ビデオ等取ってもらって見ればよいのだが、なかなかそこまでする度胸がない。ただ、こうして妻の説教を聞きながら、普段はなかなか考えることもできない説教周辺のことまで考える時を与えられたことは感謝だった。人間の弱さもあるが、聴衆がご臨在される主を仰ぎ、主の語りかけを聞くことができるような、そんな説教を目指したい。
2008年4月26日

神の前に出させる
 数日前に、ロイドジョンズの本について書いたが、毎朝ディボーションの後に1説教ずつ読んでいる。聴衆を神の前に出させるような説教だという印象を受ける。読んでみてこうなのだから、実際に聞いたらどんなに心に迫るものがあっただろうかと思う。翻訳ではなかなかこれほど印象に残る説教は少ないように思う。著者の背後の祈りが伺われる。願わくはこのような説教を語れる者に成長させていただきたいと思う。
2008年4月25日

先生の家庭訪問
 娘の先生の家庭訪問があり、お会いできる時間があったので、妻と共にお話をさせていただく。入学式も葬儀で、最初の参観日も祈祷会で行けなかったので、せめてご挨拶だけでもと思ったからだ。お話をしながら、自分もかつて教師をしていたころ、この時期家庭訪問をしたことを思い起こす。この頃、先生は何かと批判されることが多いのではないかと思うが、保護者は教師の批判など、少なくとも子どもの前では言うべきではないと思う。特に小学校の場合、教師が嫌いになると、一人の教師がほとんどを担当するので、授業を受けるのが嫌になってしまうからだ。我が家で子どもによく言うことは、「先生のおっしゃることを、よく聞こうね。」だ。
2008年4月24日

ほめ言葉
 朝車で出かけた時、ふとラジオをつけると、「最近言われて嬉しかったほめ言葉」という特集をしていた。「おいしい!また作ってね。」「さすが…。」「雨の中をお疲れ様。」小さなひとことのようだが、聞いていて何か温かい心になり、もっと聞いていたいと思った。自分も子どもはよく褒めるが、妻に対しては照れくさくて、のど元で留まってしまっていることもしばしばあり、口に出さなければと思った。神様から愛の言葉をいっぱいいただいているのだから。褒められると、脳内に血流を良くする物質が分泌されるとか…。医学的にも褒めることは良いそうだ。
2008年4月23日

日頃の小さな努力
 本当によく努力して体重を落とすことに成功した方がいるが、その方が今日も歩いて祈祷会に出席される。往復5キロあるそうだ。祈祷会後に少し話を伺い、いろいろ注意されていることを知る。私もどうも運動不足になりがちで、体重も緩やかながら増加傾向だ。「自転車を引いて歩く」という話を聞いたので、祈祷会後の訪問の帰り、早速そうして教会まで帰り、ここちよい汗をかく。世界では食べ物にこと欠く人々が大勢いるのに、日本ではダイエットに多額のお金が使われている。そうならないように、日頃のちょっとした努力が大切だと思う。
2008年4月22日

身近な人の見方
 朝のディボーションを終えてのひとときに、ロイドジョンズの「旧約聖書から福音を語る」を読み始める。ロイドジョンズというと、みことばを丁寧に解き明かすという印象があるが、いつも成長の執筆者勉強会でお世話になっている中台先生が翻訳されたということもあり、興味があった。前書き、後書きをまずはじっくり読み、著者は伝道者であり祈りの人であったという夫人の言葉に目が留まる。これは、大方の見方とは違っていたが、より真実に近いように思う。身近な人がどう見ているかということが、本当は重要なようにも思う。
2008年4月21日

連合会総会
 市内の教会の連合会総会が行われる。連合会主催で、いくつかの行事等を行ってきたが、そのあり方、目的など、いろいろ話し合うことができて、感謝だった。長い年月続けていると、当初の目的や熱意が失われてしまうことがあるが、静岡にまだ来られたばかりの牧師の方々が率直に意見を聞かせて下さり、見直しが必要だなと思うこともあった。それぞれの教会で行われていることも同じだと思う。思い切った見直し、改革が必要な場合もあるように思う。
2008年4月20日

働きの背後で
 第一礼拝、第二礼拝の後に、教会員の皆さんと一緒に礼拝堂・ロビー・分級室のワックスがけを行う。ちょうどスペース的に二分でき、礼拝出席者も半々位になるので、30分位でそれぞれ終えることができた。久しぶりに床がきれいに輝き、それを見るにつけやってよかったと思った。また、皆で近況を話ながら労する喜びも体験でき、感謝だった。午後は訪問ややり残したワックス塗りなど、一日妻と働くことができた背後で、ひとりの方が、私たちの子どもたちと夕方までいっぱい遊んでくれた。そういう支えがあったからこそと、感謝する。
2008年4月19日

しだれ桜の植え替え
 明日の備えがほぼ終え、夕方雨がやんだのを見計らって、父としだれ桜の植樹(植え替え)をする。父も89歳になるが、穴を掘ったりまだまだ元気で本当に感謝だ。この木は、数年前に信徒の方が買ってきてくださったものだが、花の時期を終え、枝の伸びやすい場所に植え替えることにする。うまくついてくれればいいと思うが、父と一緒に植えた木なので、記念になると思ったし、大切にしたいと思った。
2008年4月18日

判断に迷う時は
 主のみこころを求め、これに従っていくということをこのところ考えさせられているが、金田福一先生の本の中に、「信仰生活には、決断と受容の両面があります。前に向かって判断し、決断する時には、主への服従が根本であるべきです。物事をおのれに服従せしめようとしないで、おのれをみこころに服従せしめるべきです。判断に迷う時は、おのれの不利となることを選択すべきです。」と書かれていたことが心に留まる。おのれの有利にと決断する世の中にあって、不利になることを選択すべきとは、何と大胆な、しかし聖書的信仰に裏打ちされた言葉のように思う。
2008年4月17日

こんなものまで
 この次の日曜日は、礼拝後に皆でワックスがけをするので、そのために道具を買いに行く。初めに、百円ショップに寄ってみたところが、何とそこでバケツやモップまでそろうではないか。それほど毎日使うものでもなく、この時だけ使うという感じなので、それを購入する。その後、ホームセンターにも寄ったが、今まであったモップのスペア以外は値段の差を見て買う気がしなくなってしまった。恐るべし百円ショップと思った。
2008年4月16日

早起きの恵み
 娘が朝7時15分には家を出るようになったため、このところ我が家の生活時間は、サマータイムのように一時間早くなった。このところ4時起きで、6時から朝食の準備をしている。そんな生活になったので、体が慣れないのか、それとも疲れがたまっているのか、風邪が抜けない。夕刊で百日咳が流行っているというニュースを見てもしやとも思うが、症状が違っているので大丈夫とは思うが…。でも、早起きするといいことがたくさんある。朝、静かな中でじっくりとみ言葉を読み、祈れることもそのひとつだ。
2008年4月15日

アイリカさん来静
 昨年夏、私たちの教会においでくださったドイツ人ソプラノ歌手アイリカさんとその指導者でもある小林先生が、市内のルーテル教会でコンサートをされるということで、聞きに行く。「昨年よりも進歩している」と小林先生が話していたが、技術も表現力もアップしているのではないかと、素人ながらも感じるほどのすばらしいコンサートだったように思う。多くの人に聞いていただくためには、このように市内のあちこちの教会で実施した方がいいのではないかと思った。
2008年4月14日

91歳のサポーター
 福音放送の総会に、ある牧師のお母様が出席してくださる。91歳になるそうだが、とてもお元気で、いろいろ質問してくださり、この働きのためにとうとい献げものもしてくださった。その親子の会話を聞いていると、本当にすばらしいというか、麗しい関係がにじみ出ていた。こういうサポーターの方に支えられているのだと、昨日に続き教えられ、自分も与えられた奉仕を忠実にしっかりとしなければならないことを教えられる。
2008年4月13日

多くの人の手に支えられ
 礼拝後、藤枝のご自身の所属教会で礼拝を守った兄弟が来て下さり、福音放送の会計監査をしてくださる。わざわざ遠方から来て下さり、忠実な奉仕のわざをしてくださることに、心から感謝する。福音放送も、考えてみれば、どれだけの人の手を通し、祈りを通して届けられているだろうかを思う。本当にたくさんの人の奉仕の業を通して届けられていることを思う。もっと多くの人に見ていただき、教会を訪ねる方が起こされるように、委員の先生方と協力しつつ、働きを進めていきたいと思う。
2008年4月12日

都会の教会
 教会員の方が、ネット上で知り合ったというクリスチャンの友人を教会にお連れくださった。東京からわざわざ訪ねてくださった。お話を伺うと、通っていた教会が継続して借りることができなくなり、残念ながら閉鎖されてしまったという。駅から近く交通の便はよかったものの、日曜日だけ借りる場所だったので、十字架も掲げられず伝道も自由にできないという条件もつけられていたということだった。地方から見れば、都会の教会は人も集まりやすくていいのではないかと思ったりもしたが、都会は都会でいろいろ大変だということを改めて感じる。そういうところで礼拝を守っていらっしゃる教会の上にも、主の支えと祝福があるように祈りたい。
2008年4月11日

鍵を探す
 朝、鍵が見あたらない…。無くした時間帯、無くした場所も分かっているのに見つからない。仕事がたくさんあったので、一旦探すのを中断し、時々思い出したかのように同じ箇所を何度も見に行ったりもするが、結局昼過ぎになってようやく見つける。見つかってホッとすると同時に、無くした銀貨のたとえを思い出す(ルカ15章)。見つけた時の喜びと共に、自分のものだから一生懸命探すと言われているところに、ああそうかと改めて納得する。神はご自身のものとして我らを捜し出し、また人々を捜し求めておられるのかと思うと、主の御手にある平安を思う。
2008年4月10日

水漏れの修理
 教会の男子トイレの手洗い場の水道管の接続部分から水漏れがしていることに気づき、止水栓で水を留めた上で、これなら自分で直せるかと思い、パッキンを買ってきて直そうとしたところ、かえってひどい水漏れになってしまった。これは自分の手に負えないと、水道屋をお願いする。自分で修理できるところと、そうでないところとの見極めが大切なように思ったが、失敗しないとなかなか気づかないとも思った。失敗はない方がいいに決まっているが、時に根本的な治療のきっかけとなることがある。創造主の前に心を開き、水漏れがないか探っていただくことも大切と思った。
2008年4月9日

福音放送は赤字決算
 福音放送「ライフライン」の決算報告がまとまった。今年は15万円の赤字となってしまった。超教派の働きの困難さを思う一方で、それでも十数年間、福音放送を維持することができたことを感謝すべきと思う。来週は、この放送を支えている県内60余りの教会から構成される静岡福音放送協力会の総会がある。静岡では、毎週土曜日朝5時からの放送だが、視聴率はなかなか好調だ。この放送がもっと用いられ、教会に導かれる人、救いに預かる人が起こされるように祈りつつ活用する必要を覚えさせられる。
2008年4月8日

市内の桜
 訪問のため市内をあちこちバイクで走り回る。午前までの雨と強風で桜は散ってしまっただろうなと思いきや、市内でもいろいろ差があることが分かった。すっかり散ってしまったところもあれば(教会のすぐ近くはそうだった)、まだ咲いているところもあり(北街道沿いや愛宕山など)、市内でも少し離れただけでいろいろ違うと思った。気候の影響もあるだろうが、どこで作られた苗か(親木)の影響を受けているらしいとのことだ。ともかく、春は創造のみ業を深く感じる季節だ。
2008年4月7日

お母さんありがとう
 昨晩の息子さんが葬儀に出席され、終始きちんと座っていた。祈りや讃美歌の終わりには「アーメン」と大きな声で言ってくれた。終始立派な態度で本当にすごいと思った。式の終わりに、棺の中を見て、「お母さん、大丈夫?」と声をかけていた。死ということの意味がわからなかったのかとも思ったが、最後に花をたむけながら「お母さん、ありがとう!」と大きな声で言った。彼なりにどこかで分かったことがあったのかもしれない。皆で感動の涙を流す。
2008年4月6日

家に帰りたい
 礼拝後、昨日お母さんを亡くし、遺された重度の障害を負った一人息子が来られた。反応のないお母さんに、何度か「お母さん」と呼びかけ、「荷物」「荷物」と言っていた。同行して下さった施設の先生に聞くと、荷物を持って、家に帰りたいということのようだった。家はもう手放さなければならず、彼の帰る場所は間もなくなくなってしまう。胸がいっぱいになる。お母さんは寝ているように、穏やかな顔だった。「お母さんは天国に行ったんだよ。また天国で会えるよ。」と言う以外に言葉が思いつかなかった。
2008年4月5日

苦難の中にも
 深夜に、教会員の方から電話があり、ひとりの姉妹が召されたとの事だった。急遽、病院に行き、ご遺体を教会に運んでいただく。少しずつ回復している矢先のことで、本当に寂しく思うが、これも主の深いご計画によるものと思う。苦難の連続のご生涯だった。それでも感謝を忘れない明るい方だった。心込めて、葬儀の備えをしていきたいと思う。
2008年4月4日

プリントの山
 新年度を迎える準備をすべく、たくさんのプリントの準備をする。全体で30ページほどの文章を作ったり訂正したりする(今週一週間をかけてだが)。総会で新役員が決まり、新たな体制作りのために、役員の皆さんのためのプリントや教会員の皆さんにお分けするプリントに目を通してもらうべく準備する。見直ししながら、直しても直しても、まだしたりないような気がして、もっと早くから準備しておくべきだったかと思うことしきり…。主の助けを祈るばかり…。
2008年4月3日

裏山の桜
 夕方、日が沈む前に、30分ほど子どもたちと教会の裏山に登る。頂上に桜の並木があるのを見に行くためだ。雪をいただいた富士山も見え、桜も満開できれいだったが、強風のためか花びらが散り始め、緑の葉が出つつあるものもあった。一瞬の輝きで、名残惜しく思う。が、桜ばかりに目が行きがちだったが、子どもたちがいろいろな花を見つけ、様々な花々が一斉に開いているのも目にし、春を実感したひとときだった。季節の移り変わりが与えられているのも、大きな恵みと思う。
2008年4月2日

介護される方のためにも
 ご家族を介護していらっしゃる方が祈祷会に出席され、その様子を話してくださる。鼻腔栄養になり、ご本人の不快を思うと共に、介護される方も自宅でそれをしなければならないことなど、本当に大変な様子を伺い、胸が痛む。それでも、時間を作られ祈りに来られる姿に励まされる。心も体も健康でないと、介護を続けることの困難を思う。他にも数名の介護をなさっている方がいるが、改めてそういう方々のお話を伺わせていただき、祈る必要を覚える。
2008年4月1日

目立たないところで
 ある方が、試練の中にある教会員の方のために愛を尽くされていることを伺う。ご自分が教会に導かれた方でもあるが、誰も何も知らない中で仕えておられる姿に触れ感動する。教会として制度が整うと、いろいろいいこともある反面、迅速な対応が難しくなる場合もある。今日の社会もそれと似ている。愛と決断力のある現場担当者が、迅速に対応できるようになるのが理想ではないかと思ったりもする。でも、そういうことがない中にも、愛の手を延べられる働きを、主はどんなにか喜ばれるだろうかとも思う。
2008年3月31日

ゴスペルの取材
 夕方、この近隣にフリーペーパーを配布している一社がゴスペルの取材に来て下さった。市民の方が気軽に楽しめる音楽の場を特集するということだ。こんな機会はなかなかないので、本当に感謝だった。とにかく、楽しい雰囲気の中でやっているということをお伝えする。ゴスペルの楽しさ、すばらしさを、少しでも多くの方に知っていただく機会になればと思う。
2009年3月30日

感謝と悲しみと
 午後、総会が行われる。総会というと、あまり良いイメージは持たれないものだが、教会の総会は一年の神の導きを感謝し、新しい年度に向けての神のみこころを求める場でもある。担当の方々が、教会員の協力と祈りを感謝し、それぞれ活動報告をしてくださった。新年度も、新役員の皆さんと協力し、また新たな思いで励もうという思いになる。また、お母様が召されたと連絡をしてくださった姉妹があった。最後まで耳元で神様のことを話していましたと話してくださり、その方の思いに胸がいっぱいになった。聴力は最後まで残ると言うので、きっとその言葉は届いていたと思う。これまでのご本人の言葉など経緯を伺っていたので、主がきっと御許に召してくださったに違いないと信じる。主の慰めを心から祈る。
2008年3月29日

入院が重なる中で
 また一人入院された方がいたことを昨晩聞く。幸い、その方は一週間程度で退院できるのではないかということだが、80代半ばを過ぎているので、ご家族もどんなにか心配ではないかと思う。明日の総会の準備等で、今日はお伺いできなかったが、お訪ねした教会員の方が快方に向かっているとの報告に来てくださった。もう一人の姉妹も、少しずつではあるが、回復しているようだった。なおも重篤な方もいる。主の恵みのみ業がなされるように祈るばかりだ。
2008年3月28日

祈る神を知る恵み
 教会員の姉妹が入院されたと伺い、午後妻と訪ねる。肺のご病気で、何とも息苦しく気の毒だった。それでも、「ありがとうございます」と何度も言われ、「イエス様が共にいてくださいますから、何も心配しなくても大丈夫ですよ。苦しい時にはイエス様と呼んでください。」と申し上げると、「はい」とお答えになられる。また、お母様が危篤で、急いで出かけられた姉妹も、その前に教会に立ち寄られ、ひととき祈りの時を持つ。ともかく、主の癒しと平安を祈るばかりだ。ただ、こういう時にも、心を向けて祈ることのできる愛なる神を知っていることは、大きな支えにきっとなると思う。
2008年3月23日

復活祭合同礼拝
 復活祭を合同礼拝で祝う。いつも二度の礼拝に別れて行っているが、今日は皆で集まっての礼拝だったが、賛美も力強く、それだけでも大きな喜びだった。復活は私たちの何よりの喜び、希望であることを覚えさせられる。市内の教会で集まったら、どんなに力強いだろうか。(今朝の早天は40名程だったが…。)また、世界の主にある民が集まって復活の主を礼拝し、賛美をささげたらどんなだろうか。そんな光景を心に思い描きながら、礼拝をささげる。
2008年3月22日

復活祭の準備
 朝から復活祭の準備をあわただしくする。ただ、いつも喜びの先取りをもって備えることができるような気がして、あわただしさの中にも喜びがある。今朝は、総会資料の準備などもこれに加わり、我が家では娘の卒園式だったので、妻もそちらに行き(自分は行けず残念だったが)、一層の忙しさだったが、数々の恵みを感謝しつつ備えることができた。これも牧師の特権なのかもしれないと思った。
2008年3月21日

自分が何をしているのか知らない
 朝祷会で、主の十字架上での言葉、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」が開かれた。私たちは、自分のことが自分が一番よくわかっていると思っていても、自分が何をしているか知らずに、罪を犯してしまっている。でも、それも神はすべてご存じで、赦しを祈って下さると語られた。本当にそうだと思った。そういうお互いのためにも、主はその赦しのために執り成しを祈られたことを改めて思い、感謝する。受苦日に、みことばを語る側ではなく、聴く側になることのできた恵みを思う。
2008年3月20日

人間の薄情さを思う
 受苦日を前に、夜に洗足・聖餐の祈祷会を持つ。主の足跡をたどり、その大きな犠牲を改めて思う。ただ、賛美の中に、「かくもわがために栄えを捨つ われは主のために何を捨てし」とあるが、主のために何をしただろうかとふと思わせられる。今年は特に年度末と重なり、この日を思えず仕事に没頭しなければならない人もあるかもしれない。主のみわざに対し、人間社会の薄情なまでもの現状を思わずにはおれない。でも、それらを覆って余りある主のご愛をも思う。
2008年3月19日

妻の話を聞くこと
 先日の結婚式で、その教会の牧師が、「妻を愛することを具体的に表すには、妻の話によく耳を傾けることだ」と話していた。その話を聞きながら、そうだなと改めて思った。妻が時々、「聞いてくれない」と言う時があったからだ。妻との会話の中で、そのことを思い出して話すと、「その通りよ」と言っていた。聞くということは簡単なことのようで難しい部分も多いが、心していなければいけないと思った。
2008年3月18日

寝込んでしまう
 朝はいつものように起きたのだが、朝食前から体調が悪くなり、発熱とおなかの調子が悪くなり、一日寝込んでしまう。医者に行ったところ、ウィルス性の胃腸炎だとか…。一日ぐったりして何もできなかった。この2年近く、寝込むということはなかったのだが…。健康が与えられていることの感謝を実感する。
2008年3月17日

姉たちと再会
 二人の姉がそれぞれ帰って行った。土曜日からこちらに来て、久しぶりに実家で再会し、いろいろ話もできた。姉たちは本当によき理解者で、クリスチャンであることはもちろん、教会のためにいろいろな面で協力してくれて、本当に感謝で一杯だ。その家族の理解のあることも大きい。自分は支えてもらうばかりで、何のお礼もできないが、それぞれの家族や仕事のために祈りたいと思う。
2008年3月16日

詩篇22篇
 受難週を迎え、いつもは福音書のどこからか説教することが多いが、今回はメシア受難の詩篇と呼ばれる詩篇22篇から説教する。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの十字架上の言葉から始まる詩篇だ。我らの罪を負われた以上、神から見捨てられなさったことを聖書は告げているように思う。それが肉体的にも霊的にもどんな苦しみであったかを思う。だからこそ、私たちの赦しがある。主の十字架の恵みを改めて思い、み言葉を取り次ぎながらも、心に迫るものがあった。
2008年3月15日

浜松での結婚式
 礼拝に出席していた方の結婚式が浜松の教会であり、こちらからも十数名で出かける。大きな教会ということもあり、200名以上が出席され、ゴスペルやハンドベル、そしてわかりやすい聖書のメッセージもあり、盛大なすばらしい結婚式だった。お二人の嬉しそうな姿がとても印象に残った。せっかく披露宴にもお招きいただいていたのに、妻が体調を崩し、出席できずに残念だったが、改めて妻を大切に、家庭を大切にしようと思わされた結婚式だった。
2008年3月14日

朝祷会で
 朝祷会では、歴代誌上4:9〜10の「ヤベツの祈り」の箇所からメッセージがあった。この祈りは、以前はどこか御利益的な感じがして、あまり好感が持てなかったけれど、神への叫びだと思うようになったと語られ、なるほどと思った。「わたしを祝福してください」と、もっと大胆に祈る必要を思う。
2008年3月13日

同級生が訪ねてくる
 お昼前に教会の庭で仕事をしていたところ、一人の方が訪ねて来られた。何と、中学時代の同級生が、近くに仕事に来て立ち寄ってくださった。大工をしていらっしゃるとのことだった。ひととき、同級生や恩師の消息など昔話に花を咲かせる。同級生で、今も地元に残っているという人はそれほど多くないように思う。同級会も滅多に行われていないようだ。でも、そういう方々にも何とか証しができないだろうかと、ふと思わされる。
2008年3月12日

総会資料を作る中で
 総会に向けて、資料を作成し始めている。今年度は4名の受洗者と4名の転入会者が与えられ大いに感謝だったが、礼拝出席者の平均は減少してしまった。それは、受洗者や転入会者は、昨年度以前から既に礼拝出席していたことに加え、今年度はそれまで忠実に礼拝に出席しておられた方が、ご夫妻で長期療養というような方が複数あったからだと思われる。地方の教会では高齢化が進み、このような場合、もっと影響を受けると思う。それでも、主を仰ぎ伝道に励む時、必ず実りも与えられると妻と話す。今年度与えられた求道者も何人かいらっしゃる。そういう方がしっかりと信仰に結ばれるよう祈っていきたい。
2008年3月11日

教区会で
 教区会があり、先生方と交わりと祈りの時が与えられる。教団の先生方は転任の時期でもあり、何かと大変だ。最近、特にお体の弱さを覚えているある牧師先生は、後任を切に願ったが、牧師不足ということもあり、そうはならなかったようで本当に大変だと感じた。また、今回教区内ではなかったものの、年齢を重ねてからの転任は何かと大変だと聞く。その通りと思う。そういう大きなリスクを背負いながら伝道に励んでおられる先生方に敬意を表すると共に、私ももっと祈らなければと痛切に感じた。
2008年3月10日

ビデオの整理
 子どもたちのビデオがだいぶ貯まっていて、7年使ったビデオカメラも壊れそうになってきたので、今のうちにDVDに移し替えておこうと、仕事をしながらでもパソコンが働いてくれるので作業を開始する。昔の画像を見ると、つい懐かしくなり妻と二人見入ってしまったりする。それにしても、昔の思い出がこのように画像になっているということは、本当にすごいことだと思う。昔は写真だけで、枚数もそんなにはなかった。間もなくこの画像も、ハイビジョンが当たり前の時代になり、古ぼけたものになっていくのだろうが…。でも、何か時間を止めておけるようで、これは家族にとっては宝物のひとつのように思う。
2008年3月9日

礼拝の特別賛美
 第二礼拝で、竹下静さんという若い姉妹が千葉からおいでくださり、特別賛美をしてくださった。静さんは、私たちの教会関係者の一人だが、CDを2枚出している歌唱力のあるゴスペルシンガーだ。静さんの歌はどこか恋の歌のようにも聞こえるものもあるが、神様が私たちをどう見ていてくださるかを表現したものだという。そのように神様を知っているというのは、若い女性ならではの感覚なのかもしれないと思う。彼女でなければ伝えられないものがあり、それを必要としている人もあるのだろうと思う。
2008年3月8日

介護の中で
 ご両親を一人で介護なさっている方が訪ねて来られ、いろいろお話を伺う。きれい事では済まされないこともある中で、そのご苦労を思いながらも、一緒に讃美歌を歌ったり、祈ったりしておられるということを伺う。クリスチャン家庭ならではと思い、そういう中にも主の豊かな守りと支えが加えられていることを、言葉の節々に感じる。また、こういうご家庭をどう霊的に支えていくかが、教会の大切な使命のように思う。
2008年3月7日

電車に乗って
 東京に出張に行く。電車の中で、若い方々が高齢者に座席を譲っておられる姿を何度か見て、他人には無関心を装うような人が多い社会の中で、何か妙に嬉しく思った。自分はできるかと問われているようにも思った。そうしたら、中央線の駅で、中東と思われる外国人から、市ヶ谷に行くにはどこに乗ればいいかと訪ねられた。東京の交通にそれほど明るくなく、いきなり英語だったので一瞬とまどってしまったが、自分も逃げずに話さなければと思い、幸い看板を見てすぐにわかったので、ホームを指してこの路線だと話すことができた。社会の流れに流されず、小さな実践を問われているように思った。
2008年3月6日

卒園が迫って
 夜、お風呂から出たとき、娘が目を赤く腫らしていたので、「どうしたの?」と尋ねると、「さくらさんとお別れするのが寂しいよう…」と話してくれた。さくらさんというのは、保育園のクラスの名前だ。このところ、保育園から帰ると、娘は卒園式で歌う歌をよくピアノを弾きながら歌っている。卒園まで保育園に行くのもあと10回余りだ。明日はお別れ遠足。自分も、幼稚園の卒園式の時は寂しく感じたことを思い出す。娘を一層いとおしく感じると共に、これも成長のステップと思い、感謝する。
2008年3月5日

祈祷会で祈る幸い
 祈祷会に97歳の方が久しぶりに出席してくださった。「娘に行きなさいと言われ…」と話しておられたようだが、本当はご自分から聖書を学びたいとおっしゃり、教会に行くと言われたそうだ。試練の中にある兄姉もあり、年度末なので教会の様々な祈祷課題もある。でも、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18:19)とある。皆で心を合わせて祈る祈りに、神は答えてくださることを信じて祈る。
2008年3月4日

春は足踏み?
 健康のため、少しでも運動しようと、自転車であちこち訪問にでかけ、春を感じた。一時間半ほど走り、汗ばむほどだった。教会の梅も、日当たりがあまりよくない所なので開花がいつも少し遅いが、ようやく見頃になってきた。ところが、午後3時過ぎ、改めて病気の方などを訪ねた時は、また空気がひんやりしてきたように感じた。また、目がかゆくなるのは、花粉のためか、黄砂のためか…。今晩は天気予報では雪だるまで(たぶん市街地は雨だろうが)、春もそこまでのようだが、足踏みをしている感じがした一日だった。
2008年3月3日

今仲先生よりの手紙
 秋のチャペルコンサートをお願いしていた今仲幸雄先生からお返事をいただき、OKとのお返事をいただいて家族一同大喜びする。先生のお手紙を拝見し、病弱の奥様、また重度障害者の娘さんを抱えていらっしゃるとのこと、どんなにか大変な日々を送っていらっしゃるかを思う。そんな中、ご謙遜な姿が文面からにじみ出ており、きっとすばらしいコンサートになるものと今から期待がふくらんできた。またひとつ主が祈りに答えてくださった。
2008年3月2日

すべての民の祈りの家
 礼拝で「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)を中心に、みことばを取り次ぐ。また、いろいろな祈祷課題もあった。教会員の中で、様々な試練の中に置かれている方が多いようにも思う。でも、今日では教会が「すべての民の祈りの家」として、神様は特に教会で祈られる祈りに耳を傾けてくださるのではないかと思う。教会が祈りの家であるように、皆で祈り合い、支え合っていきたい。
2008年3月1日

市内の教会
 昨日も、市内の教会のことを書いたが、旧静岡市には30余りの教会がある。旧清水市を合わせれば、50位になるだろうと思う。ただ、その中で、私の知る限りでは、礼拝出席が100名を超える教会は2つ、あともう少しだという教会が2つ、あとは60名程度位から数が増えるものの、比較的小さな教会も多いように感じている。地域性もあるのか、なかなか教会が成長しないという言い方もできるが、小さな教会が数多く地道に活動しているという見方もできるように思う。市の平均はないが、県の平均は1教会の礼拝出席者は34人位で、全国18位だそうだ。まだまだ伝道の可能性があるように思う。